Vocabulary kanji grammar reading N1-6
問題1 ___の読み方として最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。
去年より利益がわずかに増えた。
橋本選手の活躍で、なんとかピンチを逃れた。
子どものおもちゃは、安全性を考慮して選ぶようにしている。
この辺りは視界を遮る物が何もない。
この説は科学的な根拠に乏しい。
何事も初めが肝心だ。
問題2 ( )に入れるのに最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。
物置の隅で、ほこり( )になっている古い人形を見つけた。
木村さんとは共通の趣味があるので、いつも会話が( )。
地域の( )に合った治療のシステムが求められている。
その選手は、十年に一人の( )だと言われている。
書類に( )があった場合、申請は受理されません。
約300年前の絵画の( )が終わり、来月から公開される予定だ。
経済だけでなく、法律にも詳しいのが彼の( )だ。
問題3 ___の言葉に意味が最も近いものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。
この映画は画期的な手法で製作された。
あの企業は海外市場への進出をもくろんでいる。
問題を解決するために、もう少し手がかりが欲しい。
あの人の話はにわかには信じられない。
この鍋は重宝している。
中村さんは仕事に対していつもシビアだ。
問題4 次の言葉の使い方として最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。
連携
不服
かなう
目覚ましい
ほどける
赴任
問題5 次の文の( )に入れるのに最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。
人気作家A氏の講演会が無料( )、多くのファンが詰めかけた。
都会から田舎に移り住んだ人の話を聞く( )、「田舎は人を癒す力を持って
いる」とつくつぐ感じる。
この鍋は、いため物に、揚げ物に( )何にでも使えて便利です。
プリンターの調子が悪くなり、製造会社に電話で問い合わせたら、向こうの担当者に、あれこれ質問に答え( )あげく、対応できないと言われた。
その日、私はホームに入ってきた電車に飛び乗った。ところが、電車は反対方向に走り始めた( )。私は電車の行き先を確かめなかったことを後悔した。
(インタビューで)
A「お店で一番気をつけていることは何ですか。」
B「衛生管理です。お客様に食事を( )、衛生面の管理には、何よりも注意
留学するまで、私は自分が見ている世界がすべてだと思っていた。実はそれが
世界のほんの小さな一部分( )気付いていなかった。
(パソコンを使いながら)
A「ねえ、この前教えた計算機能、使ってみた?」
B「うん。今まであんなに時間をかけてたのが( )簡単に計算できたよ」
A「でしょ。パソコンのことならまかせてよ」
(電話で)
山中「あ、木村先生でいらっしゃいますか。AB出版の山中でございますが、今から原稿をいただきに上がってもよろしいでしょうか」
木村「すみません。まだできていないんです。あと3日( )。」
(宇宙飛行士 山田太郎さんへのインタビューで)
山田「実は初めから宇宙飛行士になる( )、そうじゃないんです。大学を出たら、医者になろうと思っていましたから。」
筆者「では、何がきっかけで、宇宙飛行士になりたいと思ったんですか。」
問題6 次の文の_★_に入る最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。
大学入試では、試験当日初めてその大学に行き、迷ってしまった ★ 事前に見学しておくとよい。
趣味を持つのは良いことだと思いますが、家庭を犠牲 ★ 、それはちょっと問題です。
管理職になったら、たとえ ★ 部下の失敗も引き受けるというくらいの覚悟がなくてはならない。
★ 小さな町工場だった。
新番組でこれまでにない役柄を演じる俳優の上田秋さん。役作りに悩んでいる ★ という。
問題7 次の文章を読んで、(41)から(45)の中に入る最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。
広告主の品位
きょうはCMの中身ではなく、CMの出し方について、広告主の人たちにお願いをしたい。 番組の途中にCMが [ 4 1 ] 。が、モンダイはその入り方のタイミングだ。たとえば、歌やものまねのうまさを競い合う番組の中で、いざ、審査員の点数が出ようとするその直前に、ポンとCMが割って入る。あるいは、クイズ番組の中で正解が発表されようとするその瞬間に、サッと画面がCMに入れ替わる。ああいうせこいことは[ 4 2 ] 。 あれは広告主がやっているわけでなく、番組を作っているテレビ局の人の考えでやっているんだろう。が、それだったら、そういういやらしいCMの入り方はしないでほしいと、テレビ局の人に注文をつけてもらいたい。 [ 4 3-a ] 、みんながテレビの前で身を乗り出している瞬間にCMを入れれば、見ら れる[ 4 3-b ] 。が、わざわざ番組の流れを断ち切り、視聴者の感興をそいでまで強引にCMを見せようとするやり方って、さもしくないだろうか。みっともなくないだろうか。 CMのセンスは、企業のセンスのあらわれである。それはCMの中身だけでなく、CMの出し方にも言えることだ。せっかくいいCMを作っても、ああいう出し方をされると、なんと視聴者をバカにした企業だろうと思われてしまう。いやおうなしに[ 4 4 ] ああいうやり方は、極端に言えば暴力みたいなものであって、消費者を大切に思う企業のやることじゃない。 近ごろハヤリの言葉で言えば、これは企業の「品位」にかかわるモンダイである。 [ 4 5-a ] だけじゃない、[ 4 5-b ] だいぶ前から、「品がねえぞ」と怒ってるよ。 |
(天野祐吉 朝日新聞2008年4月15日付朝刊による)
(注1) せこい:ずるい
(注2) 感興をそぐ:何かについて持っている興味をなくさせる
[41]
[42]
[43]
[44]
[45]
問題8 次の(1)から(4)の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。
食器のバラエティこそ、日本のやきものの特色の一つだと思います。そして、日本人のやきものに対する思いとか愛着は、食器のみならず、種類の豊富さにあらわれているといってもいいでしょう。 私たちは食事のたびに、もちろん料理も食べていますが、知らずに目で食器も食べているのです。だから興味・関心がないというのは、不注意なだけなのです。すでに不地はできているのですから、あと一歩踏みこめば、やきものに興味・関心がグッと深まるはずなのだと思います。 (江口滉「やきものの世界」岩波書店による) (注)やきもの:陶芸品 |
筆者の考えに合うのはどれか。
筆者は、弱者をどのようにとらえているか。
(3) 思春期を迎えた最近の子どもがストレスに弱いのは、それまでの発達過程で適度にストレスにさらされる経験を十分にへてこなかったことが深く関係して いる。しかもそれは、彼らが社会化を十分に遂げてこなかったことと等しい。というのも、10代前半までの子どもは、それまでの生活圏を出てより広い社会的 文脈のなかでいかにして自己を実現させるかという課題に取り組むなかで、もっとも強くストレスを味わうからにほかならない。 (正高信男「父親力」中央会議新社による) |
筆者は、思春期を迎える前の子どもにとってどんな経験が必要だと考えているか。
問題9 次の(1)から(3)の文章を読んで、後の問に対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。
(1)
以前、花見をしている時に「桜の花は本当にきれいな正五角形だね」と言ったら、風情のない人だと笑われたことがあった。確かに、桜の花びらには微妙な色合いや形、そして香りに加えて、散りゆく美しさがある。花を愛でる和歌や俳句は数限りないが、そのなかに「正五角形」という言葉が使われたことはおそらく一度もないであろう。科学者特有の美意識は、風流とはかなり異質なものなのだと悟った。
科学において本質意外を切り捨てるためには、大胆な抽象化と理想化が必要である。桜の花びらのたくさんの特徴の中から、「正五角形」という形だけを取り出すこと。これが抽象化である。実際に数学的な意味で完全な正五角形を示す花びらは少ないだろうが、そこにはあまりこだわらない。これが理想化である。
自然界で正五角形のような対称性を示すためには、必ず規則的な法則があるはずである。花の場合、品類によって花弁の回転対称性が遺伝子で決定されていることは間違いないから、うまくこの遺伝子を突きとめられれば、花の形を決める普遍的法則が見つかるに違いない。このように、抽象化と理想化によって自然現象は単純に整理でき、普遍的な法則を見つける助けになる。
(酒井邦嘉「科学者という仕事」中央会議新社による)
(注1) 正五角形:五つの辺の長さが等しい五角形
(注2) 花弁:花びら
筆者は、自分が笑われた原因はどこにあると考えているか。
ここでの理想化とは何か。
筆者の考えによると、花の場合、抽象化と理想化によって何が期待されるか。
(2)
住居を買おうとするときは、その資産的な価値に重点を置いて考える人が多い。普通の人にとっては、一生に一度の買い物とでもいうべきもので、多額の 金を費やさなくてはならないので、当然のことだ。買った後で、何らかの事情で売らなくてはならない羽目になったときに、価値が減少していたのでは、大損額 を被る。
だが、住居にとってより重要なのは、その有用性である。住みやすさが必要なのはもちろんだが、自分のライフスタイルに合った構造になっているとか、 生活のしやすい環境にあって利便性に富んでいるとかの点も、重要な要素である。それらは必ずしも世間一般の価値基準とは一致しない。したがって、自分たち の考え方や行動様式に従い、それに照らし合わせて判断する必要がある。
特に、終の住処として考えるときには、自分たちの生き方をはっきりと見極め、その視点に立ったうえで、選択し決めていかなくてはならない。年を取ってくれば、当然のことながら、行動する能力は衰えてきて、動き回る範囲は狭まってくる。
自分たちの余生がどのようなものになるかについて、計画を立てたうえに想像力を働かせて、確実性の高い予測を組み立ててみる。その未来図に従って、 住むべき場所の見当をつけ、住居の大きさや構造などを決めていく。もちろん、将来の経済情勢の大きな変化に備えて、予算を大きく下回る出費に抑えておくこ とも必要であることは、いうまでもない。
(山崎武也「シニアこそ都会に住もう一田舎暮らしは不安がいっぱい」PHP研究所による)
(注1) 有用性:役に立つこと
(注2) 利便性:便利さ
(注3) 終の住処:人生を終えるまで住む家
世間一般の価値基準として筆者が本文であげているのは何か。
筆者の考えでは、年を取ってから住む家として住居を選ぶときに最も大切なことは何か。
住居選びについて、筆者が最も言いたいことは何か。
(3)
人間は、所詮、時代の子であり、環境の子である。わたしたちの認識は、自分の生きてきた時代や環境に大きく左右される。ある意味、閉じ込められてい るといってもいい。認識できる「世界」はきわめて限定的なのであり、時代や環境の制約によって、認識の鋳型ができてしまうから、場合によっては、大きく歪 められた「世界」像しか見えなくなることもある。わたしたちは、そういう宿命を背負っているのである。
だから、「世界を知る」といいつつ、実は、偏狭な認識の鋳型で「世界」をくり貫いていだけということが生じたりする。鋳型が同じであるかぎり、断片 的な情報をいくら集めたところで、「世界」の認識は何も変わらない。固まった世界認識をもつことは、「世界」が大きく変化する状況では非常に危険なことで ある。
一方で、これほど情報環境が発達したにもかかわらず、「世界を知る」ことがますます困難になったと感じている人も増加している。果てしなく茫漠と広がり、しかも絶えず激動する「世界」が、手持ちの世界認識ではさっぱり見えなくなってきているからだ。たしかに、ただ漫然とメディアの情報を眺めているだけでは激流に呑み込まれてしまう。
いまこそ、時代や環境の制約を乗り換えて、「世界を知る力」を高めることが痛切に求められているのではないか。
もちろん、時代や環境の制約から完全に自由になることはない。しかし、凝り固まった認識の鋳型をほぐし、世界認識をできるだけ柔らかく広げ、自分たちが背負っているものの見方や考え方の限界がどこにあるのか、しっかりとらえ直すことはできるはずだ。
(寺島実郎「世界を知る力」PHP研究所による)
(注1) 鋳型:ここでは、画一化した型
(注2) くり貫いて:ここでは、切り取って
(注3) 茫漠:広がりがあり過ぎて、はっきりしない様子
①そういう宿命とはどういう意味か。
②「世界を知る」ことがますます困難になったのはなぜか。
筆者は、「世界を知る力」を高めるためにできることは何だと考えているか。
問題10 次の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。
我が身が生涯に望み、知りうることは、世界中を流行しようと、何をしようと、小さ い。あきれるくらい小さいのだが、この小ささに耐えていかなければ、学問はただの大風呂敷になる。言葉の風呂敷はいくらでも広げられるから、そうやっているうちにK自分は世界的に考えている、そのなかに世界のすべてを包める、そんな錯覚に捕らえられる。 木でいい家を建てる大工とか、米や野菜を立派に育てる農夫とかは、そういうことにはならない。世界的に木を削ったり、世界標準の稲を育てたりはできないか ら、彼らはみな、自分の仕事において賢明である。我が身ひとつの能力でできることを知り抜いている。学問をすること、書物に学ぶことは、ほんとうはこれと少しも変わりはない。なぜなら、そうしたことはみな、我が身ひとつが天地の間でしっかりと生きることだからだ。 人は世界的にものを考えることなどはできない。それは錯覚であり、空想であり、愚かな思い上がりである。ただし、天地に向かって我が身を開いている ことならできる。我が身ひとつでものを考え、ものを作っているほどの人間なら、それがどういう意味合いのことかは、もちろん知っている。人は誰でも自分の 気質を背負って生まれる。学問する人にとって、この気質は、農夫に与えられる土壌のようなものである。土壌は天地に開かれていなければ、ひからびて不毛に なる。 与えられたこの土を耕し、水を引き、苗を植える。苗がみずから育つのを、毎日助ける。苗とともに、自分のなかで何かが育つのを感じながら。学問や思 想もまた、人の気質に植えられた苗のように育つしかないのではないか。子どもは、勉強して自分の気質という土を耕し、水を引き、もらった苗を、書物の言葉 を植えるのである。それは、子供自身が何とかやってみるほかはなく、そうやってこそ、子供は学ばれる書物とともに育つことができる。子供が勉強をするの は、自分の気質という土壌から、やがて実る精神の作物を育てるためである。「教養」とは、元来この作物を指して言うこであって、物識りたちの大風呂敷を指 して言うのではない。 (前田英樹「独学の精神」筑摩書房による) (注1) 大風呂敷:実際より大きく見せたり言ったりすること (注2) ひからびて:乾ききって (注3) 物識り:物事をよく知っている人 |
①そんな錯覚に捕らえられるとはどういう意味か。
②これとは何を指すか。
この文章では、学問をするということをどのような例を使って説明しているか。
筆者は「教養」をどのようなものだと考えているか。
問題11 次のAとBは、子どもがテレビを見ることについての専門家の意見である。 後の問いに対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。
A
乳幼児期の子どもは、身近な人とのかかわりあい、そして遊びなどの実体験を重ねることによって、人間関係を築き、心と身体を成長させます。ところが乳児期からのメディア漬けの生活では、外遊びの機会を奪い、人とのかかわりの体験の不足を招きます。実際、運動不足、睡眠不足そしてコミュニケーション能力の低下などを生じさせ、その結果、心身の発達の遅れや歪みが生じた事例が臨床の場から報告されています。このようなメディアの弊害は、ごく一部の影響を受けやすい個々の子どもの問題としてではなく、メディアが子ども全体に及ぼす影響の甚大な警鐘と私たちはとらえています。特に象徴機能が未熟な2歳以下の子どもや、発達に問題のある子どものテレビ画面への早期接触や長時間化は、親子が顔をあわせ一緒に遊ぶ時間を奪い、言葉や心の発達を妨げます。 (社団法人日本小児科医会 - 2010年6月18日取得による) |
B
専門家からは「テレビをやめて積極的に外遊びをしましょう」「自然の中で遊びましょう」という意見が聞かれますが、お母さんたちは進んでテレビを見せているのではなく、地域に出ても同世代の子どもがいない、昔と比べて自然がなくなった、という問題もあるのだと思います。(中略) 多くの親は、テレビの長時間視聴がよくないことを自覚しており、見せる内容にも気を遣っています。生活の中からテレビを排除するだけではなく、一日に六時間も七時間も子どもにテレビを見せる親の背景に何があるのかを考えなければ、問題の根本的な解決にはならないのです。 したがって、私たちの生活スタイルと、子どもにとって望ましいテレビ視聴のあり方のバランスをとりながら、これらの検証を進める必要があるのではないでしょうか。 (小西行郎「早期教育と脳」光文社新書による) |
(注1) メディア:ここでは、テレビやビデオ
(注2) 臨床の場:実際の診察、治療の現場
(注3) 象徴機能:ここでは、身の回りのものを、例えば言葉などで表す働き
子どもにテレビを長時間見せることについて、AとBの観点はどのようなものか。
子どもとテレビの関係について、AとBはどのように述べているか。
問題12 次の文章を読んで、後の問に対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。
最 近、思想を表現する方法について考えることが多くなった。たとえば、文章は思想を表現する方法のひとつだけれど、その文章にもいろいろな表現形式がある。 哲学の勉強をはじめ頃の私は、さまざまな形式のなかで論文という形式だけが、思想表現の方法にふさわしいと思っていた。
しかし、後に、この考え方を訂正しなければならなくなった。思想の表現として、論文が雄一の方法だということは絶対にない。私たちは、すぐれたエッ セーや 小説、詩をとおして、しばしば思想を学びとる。とすれば、思想を表現する文章のかたちは、自在であってよいはずである。
ところが、そう考えてもまだ問題はある。というのは、思想の表現形式は、文章というかたちをとるとは限らないのだから、絵でも彫刻でも、音楽でも、つまり実にさまざまなものを用いて、思想を表現するのは可能なはずである。そのなかには、かたちにならないものもある。
たとえば私の村に暮らす人々のなかに、自然に対する深い思想をもっていない人など一人もいない。村の面積の96バーセントを森や川がしめるこの村 で、自然 に対する思想をもたなかったら、人は暮らしていけない。ところが村人は、<自然について>などという論文を書くことも、文章を書くこともないのである。そ ればかりか、自分の自然哲学を、絵や音楽で表現しようとも考えない。
そんなふうにみていくと、村人は自然に対してだけではなく、農についての深い思想や、村とは何かという思想をももっているのに、それらを何らかのかたちで表現することも、またないのである。
とすると、村人たちは、どんな方法で自分たちの思想を表現しているのであろうか。私は、それは、<作法>をとおしてではないかという気がする。
(中略)
考えてみれば、もともとは、作法は、思想と結びつきながら伝承されてきたものであった。たとえば昔は、食事の作法を厳しくしつけられた。食べ物を残 すこと はもちろんのこと、さわぎながら食事をすることも、けっしてしてはいけなかった。それは、食事は生命をいただくものだ、という厳かな思想があったからであ る。茶碗の中の米だけをみても、
人間はおそらく何万という生命をいただかなければならない。だから、そういう人間のあり方を考えながら、いま自分の身体のなかへと移ってくれる生命に感謝する。この思想が食事の作法をつくりだした。
ところが、近代から現代の思想は、このような、日々の暮らしとともにあった思想を無視したのである。その結果、思想は、文章という表現形式をもち、文章を書く思想家のものになった。そして、いつの間にか人間の上に君臨し、現実を支配する手段になっていった。
(内山節「「里」という思想」新潮社による)
かたちにならないものとして筆者が挙げているのはどれか。
この文章中で筆者は、自分の村に暮らす人々がどんな思想をもっていると述べているか。
食事の作法は、次のどのような考え方と結びついているか。
この文章中で筆者が述べていることはどれか。
問題13 右のページは、フリーマーケットの出店案内である。川本さんは、このフリーマーケットに出店したいと思っている。下の問いに対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。
部 門 絵画部門、写真部門
募集期間 2010年11月1日~11月30日
審査員 山田太郎(日本アート協会会長)、山本花子(絵家)、川上次郎(写真家)
応募規定 1 清森市内の秋を題材にしたもの。
2 絵画部門に出品する作品は、イラスト、水彩画、油絵、どれでも可。
写真部門に出品する写真は、フィルム写真、デジタル写真、どちらも可。
⋇応募作品は各部門1人1点に限ります。
⋇作品の制作年は問わないが、未発表のものに限ります。
(他のコンクールに入賞していたり、出版物や展示会などで公表されたり
していないものであること。)
応募方法 郵送、または持参。ただし、郵送中の事故について、市は責任を負いません。
指定の応募用紙を作品裏側に添付のこと。応募用紙は市役所の窓口で、または
市のホームページ(http://www.kiyomori-shi.jp)から入手可能。
応募先 清森市営業観光課観光系
(T951-0022 清森市清森2-8、TEL 084-874-8524)
最優秀賞 | 各部門1点 | 賞状と副賞(デジタル一眼レフかメラ) |
優秀賞 | 各部門2点 | 賞状と副賞(清森ホテルのペア宿泊券) |
清森賞 | 各部門20点以内 | 賞状と副賞(図書カード5千円分) |
審査結果 清森市のホームページ上には1月15日に発表します。入賞者には1月中に結果を郵送します。電話および窓口での問い合わせには応じられません。
表彰式 2011年2月下旬(予定)最優秀賞と優秀賞の方には、表彰式で賞状および副賞をお渡しします。
注意事項 *入賞作品は、1年を限度に主催者がお預かりして広報活動などに使用し、1年後にお返しします。
*上記の応募規定を守っていなかった場合には入賞が取り消されることがあります。
<主催> 清森市 <協賛> 昭和デザイン株式会社、山手百貨店、新東京鉄道、清森ホテル
高木さんが制作した以下の作品のうち、応募できるものはどれか。
入賞したかどうかを知るには、高木さんはどうしたらよいか。